LOGIN病院の面談室へ移されたあと、駆けつけた医師が私の左手首を診察した。 骨折や捻挫はないが、白い皮膚の上に、男に強く掴まれた指の跡がくっきりと赤い帯になって残っている。警察へ提出する可能性があるなら湿布だけで済ませない方がいいと説明され、医療用の写真撮影の同意書に署名した。自分の手首の痛みが、診療録の中で『左手関節部圧迫痕』という無機質な文字に変わっていくのが、どこか他人事のように見えた。 葵さんとの面会は中止――正確には延期になった。悔しかったが、病院の正面玄関でこんな襲撃が起きた以上、母の安全を最優先にするしかなかった。「高瀬さん、先にこれを。窓越しに撮った動画です。運転手の端末画面が映っています」 私がスマートフォンを渡すと、高瀬さんと相良さんが即座に画面を確認した。「『KJ-PS』……九条康生氏の私設秘書室で使用されている内部略称と一致します。送迎会社から一次回答も来ました。外部の秘書代行システムを経由していますが、接続元IPと認証コードの発行先が康生氏の私設秘書室の管理端末です」 相良さんがさらに画面をスクロールし、目元を鋭く細めた。「待ってください。今日の送迎予約ログの内部備考欄に、奇妙な付帯コードが残っています。『SYM_RLC_NGN』……KMS系の秘書代行で過去に使われていた業務タグと照合すると、SYMは狭山(Sayama)、RLCはリロケーション、NGNは長野県内の拠点コードと見られます」 私は椅子から身体を起こした。「狭山って、二十四年前の白桐産院の看護師長ですよね!? なぜ私の拉致未遂の予約と同じ端末に、看護師長の移転タグがついているんですか」「発注元の管理端末が、朝霧様の移送手配と、長野にいる旧看護師長・狭山氏の転居手配を同じ作業枠で処理していた可能性があります。康生氏側が、証人である狭山氏を先に動かして隠そうとしているということです」 高瀬さんと相良さんが警察および現地調査班との連携に動く中、私はふと、隣にいる律がさっきからずっと黙っていることに気づいた。 律は黒い仮面の奥から、私の左手首に残る赤い圧迫痕だけをじっと見つめていた。
だが、次の呼吸で、私の側のドアが半分開いた。患者のふりをしていた男が、その隙間から私の左腕へ手を伸ばした。 車内で律が上体を起こす気配がした。相良さんがもう一人の男へ向き直るのが、窓越しに見えた。 ドアの取っ手には、係員のような顔をした三人目の手がかかっていた。窓越しの運転手へ注意を向けている間に、私の側へ回っていたのだ。 手首を掴まれる。 冷たい指だった。 身体が、一瞬で昔の階段へ戻りかけた。 掴まれる。引かれる。倒される。見られる。 違う。 今は違う。 私は肩を引かず、逆に手首を内側へ回した。コンビニの夜勤で、酔客に腕を取られた時、店長から一度教わった外し方だ。完全には外れない。けれど、相手の力がずれた。「相良さん」 声は震えていた。 でも、出た。 次の瞬間、相良さんが男の手首を押さえ、車のドアから引き離そうとした。男が踏ん張り、靴底が舗装を擦った。 律が車内から低く言った。「朝霧さんから手を離せ」 声が荒いわけではなかった。 それなのに、男の指が一瞬だけ強張った。 車椅子に座っている。黒い仮面で顔を隠している。噂に守られ、噂に閉じ込められてきた人。その人の低い声が、今は私の腕に食い込む指を止めていた。 男の指が緩んだ隙に、私は掴まれていない右手で、スマートフォンのカメラを窓の外へ向けた。 録画は続いている。画面の端に、偽送迎車のナンバーと、窓の外にいる運転手の端末が映っていた。「その画面、消さないでください」 言ってから、ようやく左腕が痛いことに気づいた。記録を残さなければと考えている自分が、他人のようだった。 自分の声が、病院前の空気に響く。 窓の外の運転手が、反射的に端末を伏せようとした。 相良さんは私の腕を掴んだ男の手首を押さえたまま、運転手に「そのままで」とだけ言った。 私は録画画面を見て、ナンバーが入っていることを確認した。「今、表示されてる予約番号と発注元、見えています」 録画画面の文字が揺れていた。左腕を掴ま
車の窓の外では、朝の街が薄く流れていく。通勤の人たちが横断歩道に立ち、コンビニの前では配送トラックがバックランプを点けていた。三年前、夜勤明けに見ていた景色と似ているのに、今の私はスーツの上にコートを着て、榊家の車に乗っている。 窓の外は明るいのに、車内だけ時間の流れが遅いようだった。 変な感じがした。 救われたからここにいる、ではない。 自分でここまで歩いてきて、途中から律が隣を歩くようになった。それがたぶん、今いちばん正確だった。「朝霧さん」「今度は何ですか」「病院に着いたら、少し待ってください」 律はそこで言葉を切った。短い間のあと、声を落とした。「……一人で行かないでほしい」「どうするかは、その時の状況を見て決めます」「でしょうね」 張り詰めていた呼吸が、ようやく緩んだ。律も、それ以上は何も言わなかった。 病院の正面玄関前は混んでいた。 タクシー、送迎車、介護車両、一般車。人の声とタイヤの音、車椅子のブレーキ音が重なっている。入口の自動ドアが開くたび、消毒液の匂いが外へ薄く流れてきた。 本来の榊側車両は地下駐車場へ入る予定だった。 けれど、その手前で、前の車にいる相良さんからの連絡を、運転手が受けた。「正面に出ました」 前席から、運転手が小さく言う。 窓の向こうに、黒いワンボックス車が停まっていた。病院の送迎車に見えるよう、側面には白いマグネットシートが貼られている。ロゴはある。だが、マグネットの端が浮き、急いで貼ったように傾いていた。 それだけなら、私には分からなかったと思う。 でも、降りてきた運転手の男は、病院の制服ではなく、濃いグレーのブルゾンを着ていた。胸の名札には、会社名の一部だけが印字されている。 彼は入口を見回し、こちらの車へ近づいてきた。「朝霧様ですね。葵様のご面会、病棟変更になっております。こちらへ」 声が、妙に滑らかだった。 私はドアを開けず、窓を少しだけ下げた。バッグからスマートフォンを取り出して録画を始め
翌朝の榊邸では、いつもどおり朝食が並んだ。けれど、私はトーストの半分も食べられなかった。 皿の上では、食べかけのトーストのバターが溶け残っていた。今日は紙の上の予定ではなく、私自身が外へ出て相手の前に立つ。 冷めた茶の色が、白い磁器の底で濃く見えた。 玄関ホールには、相良さんと警備担当が二人。廊下の先には宮野さんが立ち、私のコートの裾を見て、小さく眉を寄せた。「その靴でよろしいですか」「走りやすい方にしました」「走る予定はありません」「予定通りにいかない人がいるので」 宮野さんは一度息を吐き、それ以上は言わなかった。代わりに、手袋を差し出してくれる。薄い革の、指先まで動かしやすいものだった。 受け取ると、内側が少し温かい。たぶん、出る直前まで彼女が手に持っていたのだと思った。「ありがとうございます」「朝霧様が無事にお帰りになることが、今日の第一目的です」「葵さんに会うことじゃなくて?」「それは、無事の次です」 淡々とした声だったが、語尾には張りつめたものが残っていた。 私は手袋をはめた。指を曲げると、革が小さく鳴る。その音で、ようやく自分の手が冷えていることに気づいた。 律は玄関の少し奥で待っていた。黒い仮面と車椅子。外へ出る時の、いつもの姿。けれど、昨夜からその見え方が少し変わっている。 噂のための姿。 守るための距離。 そして、隠し方を間違えた人。「中止にする最後の機会です」 律が言った。「朝から脅さないでください」「脅しているつもりはありません。……あなたの口から、もう一度聞きたかった」「答えは昨日と同じです。行きます」 律は私を見た。 止めたい顔だった。たぶん、そうだ。今度は、その顔をごまかさなかった。「行ってほしくない、とは思っています」 思いがけず正直な言葉に、返事が一拍遅れた。「だから、行くなって言うんですか」 わざと試すような言い方になった。行くと決めたのは私な
その頃、都内のホテルの一室では、未央が遮光カーテンを半分閉めた薄暗い部屋でスマートフォンを握り締めていた。 テーブルの上にはコンビニのサンドイッチが開けられないまま置かれている。昨夜まで使えていたクレジットカードが、今朝のフロントの支払いで止まったのだ。画面には如月グループの不正会計疑惑の記事が並び、コメント欄には『偽令嬢』『身代わり婚』という言葉が勝手に踊っていた。 未央は九条康生の秘書室へ電話をかけた。 「私です、如月未央です! 康生さんに伝えてください、話が違うって! 私、あの人の言う通りに……」 言いかけて、未央は言葉を止めた。あの人の言う通りに栞を嘘つきにし、本物の娘の席に座り、泣いて奪った。けれどそれを口にすれば、自分で自分を終わらせることになる。『ご用件は申し伝えます』という冷たい声で通話が切れ、司へかけても留守番電話にすら繋がらない。 「……私だけが悪いみたいに」 ベッドへ投げつけたスマートフォンは音も立てずに沈み、部屋の隅には空になった小さなバッグだけが口を開けて倒れていた。◇ 同じ日の夕方、温室から書斎へ戻った私たちのもとへ、相良さんが緊迫した面持ちで入ってきた。彼の目の奥が一瞬で仕事の色に変わっている。 「律様。明日の朝霧様の移動予定について、外部の送迎会社へ不審な変更依頼が入っています」 私は顔を上げた。相良さんが端末の画面を開く。 「明日、転院先の病院で葵様と面会される予定ですが、榊側で手配した車両とは別に、同じ時間帯・同じ病院名で迎車依頼が出ています。支払い名義にはKMS系のペーパーカンパニーが噛んでいます」 KMS。康生の顔が脳裏に浮かんだ。母との面会を利用して、私を別の車へ乗せて連れ去ろうとする誰かがいる。律の表情から先ほどまでの甘い柔らかさが消え、氷のように鋭い当主の目へと変わった。 「明日の面会予定を、こちらで全面的に組み直します」 「……中止にはしません」 私は自分でも驚くほど早く言っていた。律が私を見て、それから警備担当の配置図を画面に広げた。 「最初から、動線を組み直すつもりでしたか」 「考えてはいました。……なら、次から先に言ってください」 私が少しだけ頬を膨らませると、律は相良さんへ警備指示を出したあと、私の手を取って自分の前へと引き寄せた。窓の外の黒い車が、一瞬だけ
面談はそこで終了となり、隆一と琴美には今後すべて代理人を通すよう高瀬さんが告げた。正午過ぎには経済紙の第二報が出て、如月グループ創業家が二十四年前の不透明な支援金について説明を迫られているという一文が加わったが、律は屋敷へ戻る車の中で私のスマートフォンをそっと預かった。 「今日はもう、ニュースも書類も見ない約束です」 榊邸へ着くと、律は私を会議室ではなく、屋敷の奥にあるガラス張りの温室へと連れていってくれた。 冬の柔らかな陽射しが降り注ぐ温室の中には白いテーブルが整えられ、宮野さんが焼きたてのグラタンと温かいハーブティーを運んできてくれた。緑の葉と花の甘い香りが、冷たい会議室の空気で強張っていた肺の奥までゆっくりと満たしていく。 「……本当においしいです。さっきまであんなに胸が重かったのに、温かいものを食べたら急に息がしやすくなりました」 私がスプーンを動かしながら言うと、向かいの席で紅茶を飲んでいた素顔の律が、とても穏やかに目を細めた。 「あなたが美味しそうに食べる顔を見ていると、私の方まで救われます」 食事を終えて宮野さんが下がったあと、律は車椅子から長い脚を動かして、私が座る長椅子のすぐ隣へと腰を下ろした。 ふと近くで見ると、彼の目元には連日の交渉と緊張の疲れがうっすらと影を落としていた。会議室の外で私を待ち、私の手を取り、いつも揺るぎない盾として立ち続けてくれるこの人も、生身の人間なのだと改めて胸が締めつけられる。 「律さん。……少しだけ、私に寄りかかってくれませんか」 私がそっと両手を広げると、律は驚いたように目を瞬かせ、やがて「……では、少しだけ」と低く呟いて、私の肩へゆっくりと自分の額を預けてきた。 さらりとした黒髪が私の頬をくすぐり、規則正しい温かい呼吸が鎖骨のあたりにかかる。外では『怪物当主』と恐れられる男性が、今、すべての鎧を脱いで私に重みを預けている。私は彼の背中へそっと腕を回し、ゆっくりと撫でた。 「……こうして誰かに体重を預けるのは、いつ以来か思い出せません」 私の肩口で、律が目を閉じたまま静かに囁いた。 「三年前、事故でこの脚を痛めてから、私はこの屋敷をただの要塞だと思っていました。誰にも弱みを見せず、黒い仮面で顔を隠し、榊の当主としての義務を果たすだけの場所だと。……けれど、あなたが来てから
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし







